「タラ・レバ」スタイルdeluxe川崎悦子×柴田健児
TDM
:
ダンスを始めたきっかけはなんだったのですか?
川崎
:
親が“初めての子供なんだから、何でもやらせよう”っていうことで、幼稚園でバレエとピアノを習うようになったのがきっかけです。小さい頃は真剣にやっていましたが、だんだん芝居に興味を持つようになっていきました。「芝居のオーディションに受かる為には、歌とか踊りを磨いた方がいい。」って言われて、「じゃ、真剣にダンスやってみようかな」と思って、ジャズを始めました。
TDM
:
では、あくまで芝居のオーディションに受かる為の要素として、ダンスを磨いたんですね。そこから本格的にダンスの世界に入っていったのはどうしてですか?
川崎
:
通っていたダンススタジオが公演をメインでやっているスタジオだったんです。私は舞台に立つのが面白くて、芝居のオーディションにはことごとく落ちちゃうし、“とりあえずここの公演に出とくか”っていういい加減なところもありました (笑) 。そうこうしている内に、そのスタジオで教えを頼まれるようになって、芝居をやっている友達を通じて、振付の依頼が来るようになったんです。そうして、気がついたら、こういう風になっちゃったんです (笑) 。
TDM
:
なるほど。自分の得意分野に合った役割を見つけたということですね。では、けんぼうのダンスを始めたきっかけは?
柴田
:
俺は、「ダンス甲子園」だよ。
川崎
:
えー!ホントー!?知らなかった〜!
柴田
:
俺のど真ん中です (笑) 。
川崎
:
出てたの?
柴田
:
俺、まだ中学生だったんで出てないっすよ。その頃は野球をやってて、周りは結構バンドブームでしたね。でも、「ダンス甲子園」は、本当にど真ん中で、衝撃的でした。
TDM
:
何がそんなにど真ん中だったの?
柴田
:
そりゃもう、L.Lブラザーズの存在よ。しかも、出身が自分と同じ九州・福岡やろ。こんな人が同じ地元にいんだー!って驚いた。ちょうどこの前会ったんだけど、すぐ帽子にサインしてもらった (笑) 。
川崎
:
山本太郎さんとかには感動しなかったの?
柴田
:
もちろん面白かったですよ。日曜の放送が終わって、月曜日には全部真似してました。そこから、同じ時期にいろんなダンス番組が始まって、ZOOとかも見てたし…。
TDM
:
じゃあ、カポエラは全然遠いんだね (笑) 。
柴田
:
そう、カポエラはまだずっと後。カポエラに入るまでは、当時のニュースクールをやってて、高校の終わる頃、
ROOTS
がカポエラの技をやるビデオや、
カポエラジャポン
を雑誌で見て、「カポエラジャポン?カポエラって何!?」って思った。その頃、カポエラのバチードゥっていう技を、ブレイカーが取り入れて、“マックス”って呼ぶようになった。おかしな動きだし、もっと見たくなって、「たぶんアメリカに行けばある!」って聞いたから、ロスとニューヨークに行ったんだけど、当時は、ロスが結構アクロバット的で、ニューヨークでは、もう少し儀礼的なフォームだったよ。帰国してから、ラーメン屋で働いてたんやけど、「カポエラをやり続けたいな〜」ってずっと思ってた時、ガジローさんに、「だったら、
柳
紹介するよ。」ってことで、その日の1週間後には、5000円だけ握り締めて東京にカポエラやりに来てた。その次の日には某コンビニのアルバイトを決めて、それで、そのまま10年経っちゃった (笑) 。
川崎
:
日本にカポエラを持ってきたのは誰なの?
※インタビュアーになる悦子さん。
柴田
:
いっぱい説はあるんですけど、大々的にダンサー向けに紹介したのは、間違いなく、JUNさんと柳さんたち、カポエラジャポンですね。あの人たちがいなかったら、こんなに根付いてないですよ。で、カポエラジャポンのショーを初めて (川崎クラブ) チッタに観に行った時、ぶったまげて、そこからカポエラになおさらどっぷりになって、今に至ります。
TDM
:
一番けんぼうに影響を与えた人は?
柴田
:
そりゃもう、「
GYPSY
」のお三方だよね。先輩だし、やっぱりアツいもんね。生き方がもう違う。男が見てかっこいいと思う男たち。後いいところはね、みんな精神的に子供なの。これがすごく大切。今でも遊び心を持ってるし、「ダンスが好き」っていう気持ちがずっと消えない。
川崎
:
そうだよね。ダンスが好きっていう人はやっぱり残ってるし、観てても共感が持てる。
柴田
:
これは、男性の意見としてだから、女性はわからないんだけど、男は、野心とか持ってた方がいいかもしれない。悪い意味じゃなくてね。野心を持ってないと、自分に対してだったり、なんにでも優しくなっちゃう。俺は、若い頃、常に怒ってた気がするな。何をやるにしても、いつも「くっそー!」って言ってたし、「こうなりてぇ」とか、「あの人を追い抜いちゃろ」とか。すごく野心を持ってた気がする。でも、そういうのはね、どうせ時が経てば丸くなるから大丈夫。意外と枠に収まらなくても、「ダンスが好きだ!」って気持ちを持っていれば。今は強烈な個性を持ってる人が残ってると思う。自分を壊して、再構築して、壊して、再構築して…、その繰り返し。でも、アツいものがないと続けられない。経済的に辛い時もあるし。でも、それさえあれば、なんとかなる。日本は餓死するような国じゃないしね。
川崎
:
私は、若い時、ダンサーになりたいと思ったわけじゃないけども、芝居に興味を持った時には既に、「私だったらこういう舞台にするのに。」っていう風に考えてました。若い時って怖いものがないから、自分にすごく才能があると思ってる。自分が創った方が絶対面白いっていう、根拠のない自信があったんです。でもそれってすごく大事なことだとも思う。「誰かみたいになりたい」とか「誰かに認められたい」とかじゃなくて、「誰かを超える」、もっと言うと、「誰よりも自分が一番だ」っていうくらい、強い信念みたいなのがないと。そう思ってれば自信とか実力ってついてくる。でも実際のところ、現実ってそんなに甘くないし、それだけ痛みも受けるし、落ち込みます。でも、絶対這い上がれる。だから、本当に踊りでなんとかなりたい!っていうものを見つけた方がいいですよ。なんとなく、「あんなダンサーになりたい」とか、「あんな人みたいに踊りたい」とか思ってる人は絶対残っていけないと私は思う。その時点で超えられないもん。他人へのリスペクトはいいの。でも「私はこうなる!」っていうビジョンを持った方がいいと思う。
TDM
:
一番川崎さんに影響を与えた人は?
柴田
:
私は、やっぱり一世風靡
※
ですね。デビュー前から解散まで振付を担当したんだけど、19・20歳の原宿の不良たちとやりあうには、はったりも必要だったし、怖いっちゃ怖いけど、なめられるのもしゃくでしょ (笑) 。だから彼らのおかげで、どんな振付が来てもなんでもないって思えるようになりました。まさに青春時代。すごく反抗されたりしたけど、お互い本気でぶつかり合って、心はアツイ人たちだから、面白かったですよ。それに、今でも第一線に残っているというのがすごいですよね。ただの不良じゃなかったわけでしょ。そういう激動の中に自分がいられたのはすごくラッキーだったなって思いますね。今では自分のこやしになってると思います。
※
一世風靡 (いっせいふうび)
…1980年代に原宿の通称・ホコ天などで活躍した男性路上パフォーマンス集団。それを母体に一世風靡セピアが誕生し、スーツ姿で男気溢れる歌と踊りのパフォーマンスを披露。哀川翔や柳葉敏郎らを輩出した。
TDM
:
今日は面白い話をたくさんありがとうございました。夏の青山円形劇場での公演を楽しみにしています。
※文中敬称略
interview by
AKIKO
(TDM Staff)
取材場所 :
BEATNIK STUDIO
Access : 150-0022
東京都渋谷区恵比寿南1-9-4
長谷川ビルB1F
TEL : 03-3794-2449
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(Update: 2007/06/15)