TDM - トウキョウダンスマガジン

TAMAKI・プロダンサーの可能性
そういう人たちっていうのはもともとどうやって知り合ったんですか?
RI-ICHIROくんが僕の高校の先輩だったんですよ。なにかしらのつながりある人たちが自然に集まって。浦和、大宮、草加とかこの辺を渡り歩いてました。練習できる場所を探して。
もう一種の知恵だね。
知恵ですね。
渋谷の美竹公園※とかでも、昔はおどってるとチーマーに追っかけまわされてたらしいからね。
やっぱりその時代の人はいろいろ苦労してるんじゃないですか?そういう意味では。道でやるっていうのはどうしてもね。でも、その浦和周辺のメンバーはもともとヤンキーが多いから、チーマーにもビビることは全然なかった(笑)。危険な人たちだったから。
※美竹公園:東京のストリートダンスのメッカ。今では安全に踊れます。
そういうところから今フランスにいるっていうのはどういう経緯で?
ダンスで食うなんてまだそのころ考えてもいなくて、ただ自分の中には葛藤があって、もっと上手くなりたいっていうのはあったんですよ。プロになりたいとかは思わないけど、上手くはなりたいっていう。自然とそこまで行くと外国とか行ってもある程度通用するレベルになってるんですよ。決してプロ意識とかで育ったわけではないんだけど、技術的には問題ないんですよ。合わせでも何でも。

で、職を決めるってところになって、僕は元々高校で絵をやってましたから、絵の学校行ってたんで。油絵で食ってくって16のときに決めて。それから向う(フランス)に行って絵を描いてた。

でも友達はできないんですよ。キャンバスが友達みたいな(笑)。で、友達できない、じゃつまんないってなって。 ここで僕の人生にとっては意味の大きいトラカデロっていう広場があるんですよ。エッフェル塔の前なんですけど。昔はここですごいダンサーたちが踊ってたんですよ。NYで言うとセントラルパークとかプロスペクトパークに近い、ミュージシャンとかダンサーが集まるような場所があるんですよ。そこで昼寝してて、音楽かかってる。ヒマだから踊ってみようかって踊ったら気に入られて、クラブ行こうよって誘われて。で、最初はお金でだまされたりとか(笑)色々あったんだけど、それを越えていって。

そこで知り合ったダンサーにDAVIDっていうのがいて、一番仲良くなったんですけど、そいつがフランスの中でも有名な方のダンサーで。そのころDAVIDが仕事(Jaque Martinのオープニング)をしてた仲間がREGIS(フランス語の発音で「ヘジス」)とWALIDで、その3人と知り合ったことが僕のフランスでのダンスを決めたかな。なぜかっていうとWALIDっていうのがこの間のB-BOY Summitでチャンピオンになったような奴だし、もっと早い時期にREGISはM.C. Solarのバックダンサーとかで国内から有名になったウェーバーで。そういう連中と飲み食い行ったり踊りに行ったりするようになって、僕がオールドスクールにはまりだすんですよ(笑)。で、はまってく分、逆に、僕が向うに与えたのがニュースクール、ハウスっていうフランスにはなかったジャンル。これを教えていくんですよ、4年くらいかかって。
ハウスはもともとやってたの?
いやハウスはやってなかったんですけど、RI-ICHIROくんが「Maniac」にハウスを取り入れる人だったんで、僕らも勉強してたんですよ。僕自身「Maniac」からニュースクールにちょっと移りかかってるころで、それをWALIDとかに教えてたんですよね。で、ハウスを教えてるうちに、自分がハウスにハマっちゃったっていう(笑)。
じゃあフランスにはハウスを踊る人はいなかった?
いなかったですね。DIDIER(ディディエ)とJISE(ジセ)っていう二人だけは、Crystal Watersのビデオクリップとかを見て、CALEAFの踊りに感化されて真似して踊ってたんですけど、本人たちはそれはヒップホップだと思ってたっていう(笑)。
「ホーシング」の語源が実は「housing」だったみたいな誤解ですね(笑)。
そう。で「それハウスじゃん(笑)」ってことになって、DIDIERと僕が初めてフランスで公演を打ったんですよ。3000人の前で。その時つかったのがDIDIERとJISE。
そういうところからハウスが広がったと。
そうですね、そのメンバーとあとREGISが連れてきた二人とかでハウスを踊るようになってそれがバーっとひろがって、あーハウスってこういうものなんだってヒップホップのダンサーも転向したりするようになって。
じゃあもともと日本みたいな「ダンサー」っていうような層みたいなものはあったわけですね?
ダンサー層はありますね。オールドスクール、ブレイクで。僕が最初の4年間で知り合ったのはブレイカーが圧倒的に多いですね。だから技の練習とかする時でもオールドスクールを勉強すると同時に、ブレイカーが隣でやってるから、ウインドミルからなにからの入りとか、したくなくても勉強しちゃうんですよね。だからシックスステップとかも、こうすればかっこいいんだなとか、勝手に頭の中で認識するようになって。だからフランスでは色んなジャンルに出会う機会が多かったですね。おかげでオールドスクールの事がよくわかって、ポップもよくわかってきました。
ヨーロッパといえばブレイキン一色っていうイメージがありますけど…
MAURIZIOとかドイツのSTORM。ここらへんは皆つながってましたね。REGIS、WALID、STORM、MAURITIO。だからみんなよくフランスに来て。フランスが特に中心になってましたね、その時期は。だから交流の場はフランス、イベントはドイツで「Battle of the Year※」。ただドイツで交流は少ないですね。やっぱりヨーロッパの(地理的?)中心はフランスだから。ドイツだとイタリアから行くにもイギリスから行くにも遠いんですよね。そのせいでフランスって活発になったんですよ、多分。

ちょうどドイツが統一された後じゃないですか。だからベルリンとかでの貧富の差とかが広がって、ブレイクダンスごときじゃなくなっちゃったんですよね。要するにヒップホップ(のダンス)が盛んになるところって基本的に豊かなんですよ。ヒマな学生が出てこないとできない。生活に余裕がないと。
※Battle of the Year:世界中のブレーカー=B-Boy&Girlが集まってその技を競う一大イベント。今年から日本代表も参加する。
ここで名前が挙がってきたようなダンサーっていうのはもうダンス専業で稼げてる?
彼らは食えてますね。だって一週間に一本の番組に出るだけで4万とかもらってましたからね。
以前聞いた話なんだけど、ヨーロッパではちょっと技ができちゃえばそれでもう、ある程度ダンサーとしてお金もらえるって本当ですか?
それも現実。お金をもらいやすい体制があるっていうのは事実。だけど上手い下手の差がその中ですごく激しいんですよ、同じダンサーでも。ダンサーって言う枠はすごく大きくて、日本よりも大きい。それをやってさえいればダンサーであることは事実。でも極める人は極めてる。ヨーロッパの特徴は日本と違って島国じゃないから、いろんな外国を渡り歩くじゃないですか。いろんなところを渡り歩くと、やっぱり自然と上手くなるんですよ。ここが違うポイントなんですよ、日本とは。下手な奴でも外国を旅行してれば上手くなる。

理由としては、いいダンサーを見るから。いいダンサーを見て練習して、またそいつらと一緒に練習する機会があると、下手でもやっぱり上手くなる。これは日本の閉鎖的な環境では絶対生まれない。だから向うは上手い人だけが踊る場所ってのもないし、下手な人だけが踊る場所ってのもない。
じゃいろんな人がいろんなところに集まる感じ?
そう。いろんな人がいろんなところに集まって、ただ単に純粋に楽しむっていう発想が強い。下手な奴も上手い人にバトルを売るし、無謀な人たちなんですよ。無謀だからとことん勘違いする奴は勘違いするけど、勉強する奴は頭いいから、そっからいろいろ勉強するんですよ。
実際(バトルで)負けた方が(上達が)早い?
そう、負けて理解する。負けても気づかない奴もいるけど、気づく奴はそういう環境の方が早いんですよ。
日本だと仲間内だけになりやすいですしね。
だから(日本では)皆が、ある程度のレベルまでは行くんですよ。でもそれ以上行かないっていうのは…
(他と)ぶつからないから。
そう、(仲間でかたまることが)楔になっちゃう。仲間と離れないことが壁になっちゃう。
話が変わりますが、フランスとかではニュースクールとかの「ノリ」って理解される?
これはやっと最近。元々人間はそういう感覚を持ってるんですよ。(ヨーロッパは)やっぱりクラシック=技術を追求する、白人の社会だから、そういう中で「ノリ」っていうのを理解してもらうのは難しいですよ。だから僕自身が向うで特に徹底したのが「ノリ」を広めること。

僕らのチームが徹底したスタイル派なんですよ。ヨーロッパ初の、スタイル重視のグループ。だから僕らがフランスで公演をするようになってから、変わってきた。
そのグループっていうのが、先に出たREGISとか?
そう、REGISがもともとやってたCollective Moveっていうグループにうちらが加わってY-kanjiっていうグループになって。ちょうどこのころ(98年)僕がSpiceのメンバーをフランスに呼んだんですよ。その時に、「スタイル」っていうものに対する見方がフランスでも確立して行くんですよ、彼らを呼んだことによって。
ある意味、日本にElite Forceが来たときみたいな感じ?
そうそう。BRIAN※はもう既にフランスに来てたんですけど、彼がやったことははっきり認知されなかったんです。一人だったからっていうのもあってだと思うけど。単身のりこんでブレーカーの中で「いったい何をやってるんだ、この男は」位のノリで。やり方が悪かったといえば悪かったんでしょうね。

逆にSpiceは公演をやって今までなかった「合わせ」のすごさを見せた。だからBRIANにもできない仕事をSpiceはやってのけたんですよ。「合わせ」っていうものを、ソロとかバトルばっかりのヨーロッパに放り込んだっていう。

その頃日本の中でも、公演をよくやってたのは彼らとかSound Cream Steppers(以下S.C.S.)じゃないですか。S.C.S.がとことん「公演派」だったから、その下で育ったSpiceとかも公演には強いんですよ。日本では珍しい派閥ですよね。
※BRIAN:"Foot-Work" GREEN。マライア・キャリー、バスタライムズ、フォクシーブラウン等のバックダンサーや数々のビデオ出演で知られるNY出身のダンサー。彼のステップにこだわったハウススタイルは日本への影響極めて大。ブギーからスタートしてタップ、ジャズ、アフリカンなど、あらゆる分野で修練を積む彼の踊りは必見。
← Back1234Next →


Back Number