TDM - トウキョウダンスマガジン

Saeko 〜ナナメに切り込むチカラ。〜
Saeko 〜ナナメに切り込むチカラ。〜
数多くあるショーケースの中でも特異的な発想で空間を”Saeko色”に染め上げるその表現力には、惹かれるものがある。2008年11月、思い立ったようにキューバへの長期留学を決意した彼女の根底には、何があったのか?東京のダンスシーンで育ち、選んだ手段。帰国後の彼女はこんがりと日焼けして、以前よりもさらに魅力的な女性になっていた。今は、今後自分がやりたいことのために、具体的な目標を掲げる手段を勉強しているという。「まず素の自分と向き合うことから…。」

TDMでは活動家ダンサー・Saekoの初めの1歩として、彼女のキューバ旅行記をこれから連載していくことになった。それに先駆けて彼女をひも解く情熱の(?)インタビューを堪能してほしい。

Saeko 〜ナナメに切り込むチカラ。〜Saeko (freebalance)

一度観た人の記憶に残る独自のグルーブは必見。今後のダンスを昇華させてくれるであろう実力派ダンサー。コンテストにて入賞・優勝経験、CM振付、都内クラブイベントや舞台公演等に印象的に出演。2009年夏まで9ヶ月間のキューバ留学を追え、一時帰国するが、早くも2009年冬、再びキューバへ発つ予定とのこと。


自我の目覚めがダンスの目覚め。

TDM

まず、踊り始めたきっかけから教えてください。

Saeko

最初に踊りたいと思ったダンスは、実はタップダンス。うっすら記憶にあるのが、3〜4歳の頃に男性がずっとタップダンスをしている1時間くらいの番組を見て、あまりにも感動したため、見終わったあと、「お母さん、私ね、アレ、やりたい。」と、生まれて初めて自分の意思を親に伝えたのを覚えています。家が厳しく、結構粘ったんですけど「まぁ、仕方ないかな」と思いつつ、諦めましたね。

その後、演技に出会います。小学校4〜6年生頃、演技が楽しすぎて、仕事もあったりしたので、小学生のくせにあまり学校に行かなくなっちゃったんですよね(笑) 。親も心配して、中学校では演技をやらせてもらえませんでした。

TDM

結構、厳しい環境だったんですね。

Saeko

ナナメに切り込むチカラ。ダンスは自分にとって自然な行為ですが、演劇はダンスよりも好きというか、自分の中で特別なものだったんです。中学で好きなことをやらせてもらえなかったのが悔しくて、高校生になったら「好きなことをやりたい!親にダメって言われたダンスをやってやる!」って決意したんです。進路も、保育園の先生になるかプロのダンサーになるかで迷いましたが、結局ダンスを選びました。

高校時代、池袋にあったタップ教室に行って、ミュージカルタップを始めたんです。でも、私の中でダンスは遊びながらというする感が強かったみたいで、マジメに練習するのが苦手で、スタジオに通うという行為が私には難しかったんですね。

そんな高校生の時、レゲエダンサーのHarukoちゃんとクラブで出会いました。彼女からレゲエ音楽の危険な魅力を、私は腰にくるダンスがすべてということになり、すぐに一緒に踊ろう!と意気投合したんです。そして、その頃GOTOさんに出会い、ビバップを初めて見ました。「なんだこれは?タップみたいでカッコいい。」と、東中野のGOTOさんのレッスンに、チョコチョコ行き始めます。

初めてのコンサートはJB!


Saeko

うちの家庭にはいつも音楽があって、特にラテン系の曲がかかっていました。小学校1年生の時には、ジャネット・ジャクソンが流行り、小学校2年生の時に流行ったランバダにはムチャクチャはまって、腰を振って踊る映像に釘付けでした。兄・姉・兄・兄・私の5人兄弟なんですが、兄弟の影響でクラシックやスカやレゲエを聴きつつも、小室哲也サウンドもかかる時代でした。最初に買ったCDはリセット・メレンデスの『GOODY GOODY』で、初めてのコンサートはジェームス・ブラウンという、今思うとすごくファンキーな小学生になっちゃってましたね (笑) 。

でも、ヒップホップにもかなり興味を持っていましたね。小学校1年生の時にカセットテープでマイケル・ジャクソンの『BAD』をもらって、学校から帰ってきては、かけて踊っていました (笑) 。

親は生まれて立ち始めた頃から踊っている私を、温泉旅館の宴会場とか、どこかへ連れて行くたびに、踊りなさいと言いました。正直、ちょっと恥ずかしかったけど、踊り始めたら関係なかったですね。いまだに、最後の決めポーズを覚えてますが、回って両手を伸ばしてしゃがんで終わり・・・確かに今の私のダンス活動の根本は、幼い頃から何も変わっていないという感覚がありますね。

TDM

音楽のルーツとしてご両親からはどういう影響を受けていますか?

Saeko

二人とも歌謡曲が好きで、我が家にはカラオケセットがあったんですが、夜ご飯を食べたら両親がその部屋に行って歌い、そこに私も便乗して踊りにいくという習慣があったんです。

お母さんが今思うとラテンっぽい曲を歌っていました。ピアノを弾いたり、ボンゴなんかも叩いてました。井上陽水さんの『リバーサイドホテル』のイントロなんて特にラテンですよね。あれは幼稚園の送り迎えの車の中で聞いていました。色っぽい曲が好きなんです。

大学進学。「もっと立派な日本人になってやる!」(笑) 。


Saeko

ナナメに切り込むチカラ。大学受験の時期、私は進学する気はなかったんだけど、当時付き合っていたメキシコ人の彼に「サエコ、キミハ日本語ノぼきゃぶらりーガスクナスギル。モット勉強スルベキダ。ボクガ漢文ヲオシエヨウカ?」と言われ、もっと立派な日本人になってやると思ったんです (笑) 。

でも、その頃に興味があったのがJICA(国際協力機構) で、文系を選ぶよりも体育大など特殊な方が都合がよく、なおかつダンスで受験できる日本女子体育大学を受験しました。有名なレゲエダンサー、ボーグルが全盛期のビデオに映っていた男性たちが群れてやっているステップにやられながら、スタジオに通ってました。

試験にはバレエもあるので、受験1ヶ月前にバレエ教室へ行き、「あのー、1ヵ月後に受験するんですけど…」と言って、怪しまれながらも素敵な先生に習うことができ、受験もなんとか合格できました。

しかし、入学したものの、そこでは自分のやりたいダンスができず、「私はここでは生きていけないかもしれない」と思いました。当時はバイトを掛け持ちしながら、一人でクラブに行くか、バイトをするかの日々。学校にはろくに行かず、お金を貯めて家を出ようと思いましたが、その前に海外に行きたい!と思い、それから海外の旅が始まります。

海外留学で磨いたココロ。


Saeko

まずは、ニューヨークに行きました。その頃タップはやっていなかったのに、なぜかタップシューズを持って、「とりあえず“Fazil’s”に行けば、とりあえずなんとかなるかもしれない」と思い、行くと、ドアが少しだけ開いて、中で黒人さんがタップを踏んでいるのが見えました。「うわ、映画の世界だ〜」と思っていたら、いつの間にかドアのそばにいて、彼に気づかれました。「入っておいでよ。タップシューズを持ってるなら、一緒にタップやろう!」とセッションになったんです。それが、ブライアンでした。「僕はいつもハウスを教えているから、見においでよ。」と言われて、初めて生でハウスを見て、カッコいい!と思い、やり始めました。

ブライアンのように、その頃はいろんな出会いを経験しました。いまやタップダンサーとして有名になった熊谷和徳君とは、Fazil’sで出会い、一緒にニューヨークで遊びました。私がアトランタに滞在中に、「やばい人のワークショップがあるから絶対帰ってきて受けた方がいい!」と電話をしてくれました。実際にその人はセヴィオングローバーという名のタップダンサーで、本当にかっこよくて、「これはもう、私のやれる域じゃないな」と悟ったりもしましたが (笑) 。

当時泊まっていた家が、現役時代のマイルス・デイビスの写真を撮っていた猪口鉄平さんという方の家で、彼は音楽が好きで、よくジャズライブに連れて行ってくれました。ダンスはタップやハウス、アフリカンをやり、ジャズも好きで、全部好きでした。そんな3ヶ月を終えて一度日本に帰国しました。

私は次にジャマイカに行きたい気分だったので、ジャマイカに行きます。そこには、私がビデオを見てカッコいいと思っていた、男の人たちが群れるダンスがありました。

これは私の持論ですが、阿波踊りに似ていると思ったんです。地元は大塚なんですが、昔から阿波踊りが続いていて、私も小学生からやっていたので、手の感じやリズムが似ていると思いました。それで思い切りハマって、ディスコティカに通っていましたね。

ヒザ故障。「ダンスやるなら25歳くらいまでだね。」


Saeko

ナナメに切り込むチカラ。知人からのオファーで単発のショーを頼まれ、女の子5〜6人と生バンドでのショーをしました。メンバーが毎回違って、私とバンドだけが一緒で3回ほどショーをやりました。たまたま、歌手志望なんだけれども、すごく渋くていい踊りをする、幼稚園からの幼馴染のミノリちゃんが「さえちゃんに素敵な相方が見つかるまで一緒に踊ってあげる!」と言って踊ってくれたんですね。それがfreebalanceの始まりです。生音へのこだわりがあったのと、クラブで聴いても引かれないようなレゲエなどを選びながら踊っていました。

そんな時に私がヒザを壊したんです。お医者さんにも「ダンスやるなら25歳くらいまでだね。」と言われるほどでした。当時は大学3年生でしたが、試験はダンスです。でも、単位も危ないし、モダンやコンテンポラリーの作品発表会があったので、それでポイントを稼ぐしかないと思い、作品を創り始めました。普通は何ヶ月も前には動き出すのに、私は1ヶ月前に動き出したので、残っているメンバーが、正直やる気がない子たちばかり (笑) 。でも、そのメンバーでも振付をやってみようと思い、マイルス・デイビスの『Black Satin』を使って、モンティ・パイソンの映像をバックに女の子10人くらいの作品を創りました。それが、その発表会での1位を頂いてしまったんです。大学の先生たちの目も変わり、「ストリートダンスなんかやってチャラチャラしてると思ったのに、あの子なかなかやるじゃない」と、それ以降、大学からの紹介でいろいろな場で作品を創らせていただけるようになりました。

大学にはバレエのダンサーがいっぱいいて、飛んだりはねたりすることがめちゃくちゃカッコいいのだと改めて気付かされました。私はヒザを故障中のため、松葉杖だし、もし次に踊れることがあれば、もう少し違うダンスの側面を出して踊れたらいいなって。具体的には見ていて面白い踊りってことなんですが。

ステップをここでどう正しく踏むか、ではない部分というか、踊らなくてもこんなにかっこよくできる、踊れなくてもこんなにおもしろいってそういうことに気がつきました。

やって楽しい踊りと、見て面白い踊り。


TDM

“ダンスを魅せること”において意識していることはありますか?

Saeko

まず、絶対に自分がぶれないこと。かつ、ぶれないものが10浮かんだら、2しか出さないつもりで、8は想像してもらいます。

と言うのは、人はみんな、想像力がありますし。面白いのが、人って「見てください!」と見せると閉じちゃうんですよね。むしろ、隠すものに対して興味が沸いたりする。

具体的な作業としては、たとえばしっかりとしたテーマがあって、たくさん振付がある中での、一番わかりにくい部分を抜粋し、それを混ぜにしたものをガツンと出す。すると、みんな何がなんだかわからないんだけど、でも、もう一回見たくなる。わかりづらいものをいかにわかりやすくするかを意識して、みんなの想像力に期待する創り方です。“隠す”美学というか・・・わざとマックスにしないんです。

それを舞台でやると、すごく大掛かりで大変だけど、どこかで見せていける場所はないかなーと思っていて、クラブイベントに出演していくようになります。舞台でやっていた感覚のままクラブに持っていくと恥ずかしい感じになるので、宿題はもっと夜の街に似合う作品を創ることでした。

まだヒザは曲がらないし、正座もできない。でも、最後に通ったお医者さんから「踊って直しましょう」と言ってもらって、少しずつ踊り始めました。「全然動けないけど、こんなにも見せれるんだ!どうよ!」っていうヒップホップ精神がありましたね (笑) 。

そこからfreebalanceにはいろんな音が入っていきます。レゲエは哀愁が強いので、出したいカラーが逆に出しづらい。歌謡曲やヒップホップだと、自然に躍ることはできても、メッセージ性を伝えたい時に不似合いだった。でも、ハウスはいろんなことが試せるし、想像力をかきたててくれるので、ハウスに傾倒していきます。とりあえずハウスのステップを覚えたかったのでKOJIさんに習ったりしていましたね。

サルサとの出会い。


Saeko

そんな中でサルサとの出会いもあります。ニューヨークサルサシーンに、「ファニア」レーベルっていうキューバからの移民たちで構成されている、超有名でスターの集まりがあるんですけども、そこのファニア・オールスターズがモハメド・アリの世界タイトルマッチ記念イベントで演奏したんですが、最後にボンゴ奏者(編集部注 : ロベルト・ロエーナ。元ダンサー。) が、最後にめちゃくちゃ早いダンスを踊りだすんですが、それめちゃくちゃかっこよくて!そのDVDを19歳くらいのときに見て衝撃を受けました。

「このダンスは何だろう?」といろんな人に見せましたが「よくわかんないけど、サルサで踊ってるから、サルサじゃない?」と言われ、とりあえずボデギータというスタジオに行ってみました。そこにはキューバ人がたくさんいて、その頃の流れで知り合ったカナコちゃんや何人かでサルサのショーをやることになるんです。結局「何かが違う・・・」と思い、あのDVDで見た衝撃のダンスがなんだったのかをわからないまま、大学を卒業します。

そして、キューバ。自分に立ち返るために。。。


Saeko

ナナメに切り込むチカラ。ヒザはだんだんよくなり、24歳くらいからは踊れるようになりました。まさか、また踊れるようになるとは思っていなかったので、本当に嬉しかったです。25歳くらいの時、すごく忙しくなっていて、「このままいくと、将来はCMの振付とかやりながら、好きなダンスをちょこちょこやって・・・それだけかもしれない。」と、突然思い、19歳の時に感じたものを思い出そうと、26歳の4月にニューヨークにもう一度行きます。

そこでまた写真家のおじさんに出会い、私の好きな音楽を毎晩ガンガンかけてくれたり、いろんなところに連れて行ってくれ、いろんな人に会わせてくれました。55歳で始めてニューヨークで個展を開いた人、70歳を過ぎてボケちゃってるおばあさんに「ダンサーなら、踊り続けて当然よね」と言われ、写真家のおじさんに「さえちゃんはこの5〜6年間、何してたの?」と聞かれて、「うわ・・・私、仕事しかしてない。」と思いました。あの時、キューバに留学したいとか、いろいろ描いていたプランがひとつもできていないと思ったんです。

帰国後、仕事で周りの人たちに迷惑をかけるのは申し訳ないと思ったんですが、自分に立ち返りたくてキューバに行ってきたわけなんです。

自分の踊りと仕事での踊りを重ねる難しさ。


Saeko

確かに、自分のペースじゃないもので動いていたと言うか、日本のダンスシーンの悪いループにはまっちゃいそうでした。

踊ることの根本的な素晴らしさを保ったまま踊り続けられるダンサーってすごく少ないと思うんです。特に、日本だとタフじゃないとできないかなって。絶対誰でも、「将来どうやっていこうか・・・」と考えて、抜け出せないループにはまって悩む時が来ると思います。

今の日本のダンスシーンの仕組みを考えると、絶対無理があるというか、ダンスを続けることに対して、苦しくなる時がやってくると思います。自分の踊りと仕事での踊りが重なっていない人もたくさんいると思います。日本だと踊ることってそんなに自然なことではないから、少しダンスが踊れて、好きなら、仕事にして踊れる環境にしようって考える人も多い気がします。

今ではよくソロで踊るイベントが当たり前になりましたけど、私は昔から、ダンスは人と踊ってなんぼだと思っていました。相手からエネルギーをもらえて、それが気持ちいいんです。だけど、最近ようやく、自分にもソロで踊る時が来たのかなと思います。そこから真の自分のダンスと向き合う時間が始まるのかなと思います。じゃあ今までは何だったんだって感じですけど (笑) 。

今までいろんなダンスを見てきて、全部好きだし、全部をカッコいいと思った。しかし、ここにきてやっと一人で踊る怖さに立ち向かえるなと感じています。自分と向かい合って踊ることほど辛いことはないかもしれませんけどね。一人で踊れるから、誰かと一緒に踊れる。これはごく最近の感覚です。

問答無用。


TDM

キューバで体感した最も印象的なことは何だった?

Saeko

ナナメに切り込むチカラ。いろいろありますが、“問答無用”という言葉を浮かびました。いろいろ感想とか考えることがありました、そんなこと言う暇があったら行動しろ!って感じでしたね。精神的に追い込まれてようが、波は次々とやってくる。とりあえず、ダンスも腰振って楽しんどけ!っていう、何も言い訳できない環境でした。でも、それが私の中でいい環境でしたね。守るという選択肢がないから、強くなる一方でしたね。それが生きていくことだなっていう実感がありました。

現地語で印象に残った言葉があって、「トランキーラ」と「サボウル」です。

「トランキーラ」は、“とにかく落ち着いて!”って意味です。フィエスタのルンバのステージで楽器を叩かせてもらった時、周りは男衆が楽器を本番のテンションで叩き、その周りでルンバを踊っている。本番には勢いがあるから、叩いている時に意識を集中しなくちゃいけないんだけど、絶対周りを感じていないとできない。意識をどちらにも向けられないような中途半端な感覚に持っていかなくちゃいけない。それは絶対に落ち着いて冷静じゃなきゃできないもので、意識を飛ばされちゃいけないんですよね。日本だと、「飛んじゃえ〜」っていう感覚はできると思うんですが、「どうせ勝手に飛ばされるんだから飛ばない意識でいろ」って言われて・・・いかに飛ばされないようにするかはかなりきつかったです。そういう落ち着いた調和が大事なので、「トランキーラ」と言われました。

「サボウル」は“味”という意味です。“味を出せ”っていうのは、結局見せかけは求められていないんです。派手さや新しいこと、「入り込んでたね〜」なんて感想を言わせる必要もない。むしろ、冷静に落ち着いて、ジワジワやることがいいとされてるんです。実際に、いい意味でビジュアル重視のアーティストはいなくて、みんな実力派なんです。

環境的なことで言えば、キューバという場所は、クラシックなものとアフロなものがぶつかった場所と聞かされていました。実際に言ってみたら本当にそうで、スペインの音楽やソ連の流れのクラシックにアフリカの音楽や、最近は中国の音楽もありました。

TDM

ダンサーという職種はあるんですか?

Saeko

もちろん。キューバという国は芸術、教育、医療、スポーツにとても力を注いでいて、踊れる環境がたくさんあります。ただし、外国人にはあまりありませんね。

あっちの男の子たちは本当に“お酒・女の子・お金”って感じです (笑) 。そして、女性は若い子からお年寄りまで、みんないい女に見せようと、色っぽく振る舞います。日本の美意識として実年齢よりも若く見せようとしますが、あっちは大人っぽく見せようとする。結局、歳を重ねることでどちらが自然かといえば、大人っぽく見せることだと思います。日本だと、「もういい年だから恋愛なんてしない!」っていう理屈にはまりがちですけど、関係ないんです。

ダンサーとしての説得力…自分を好きでい続けること。


TDM

自分にとってのダンスとは?

Saeko

ナナメに切り込むチカラ。ダンスをやることによって、どうしても親不孝になると思います。なぜなら、まだ社会的にあまり認められているものではないから。でも、今までの経験によって、自分は踊り続けることが自然な行為なので、どうすれば私にとって「ダンスが必要だということが周囲に伝わるのかな」ってすごく考えさせられました。それを生きていく中で証明し続けてるし、どんどん説得力を身に付けたい、それができるくらい自身と誇りを持って踊って生きたいですね。ダンスは、「これが、自分なんだよね」と自分に誇りを持ち続けられる、表現し続けられる唯一の手段なんです。

要は、踊り続けたいだけなんです。そのためには、それを理解してもらえる人がいないとできない。「ダンスしていいよ!」っていってもらうためには、自分にダンサーとしての誇りを持ち、それを持つためにも自分を好きじゃなくちゃいけない。そのための努力をものすごくします。いい意味でのパワーをものすごく使います。踊り続けるための努力ができることが幸せだなと思っています。

私にとって踊ることは普通だけれども、周りの人にとっては「え!?」って思われること。でも、それをわかってもらえるように思われるくらい自分が幸せでなくてはいけないなって思います。

TDM

確かに、ダンサーとして生きている以上は、ポジティブで幸せなものを自然と与えられるくらいじゃないと、いけないなって思いますね。

Saeko

ナナメに切り込むチカラ。ダンサーを含め、芸術のアーティストの社会的な役割ってすごく大きいと思うんです。たぶん、世の中をいろんな切り込み方がある中で、唯一斜めに切り込める存在だと思うんです。

やっぱり、芸術って文句が出ないというか、創り手の考えがある前提で見てくれるから、「あ、そう思うんだ。なるほどねー」と、笑って済まされる部分がある。もし政治家で何か意見を発すると、ものすごく大きな問題のように発展していくけど、ダンサーや芸術家は自分の見方ができるし、かつそれを抽象的にも具体的にも表現できる存在だし、表現しても怒られない唯一の存在だと思います。

TDM

そういう存在として認められる仕組みはまだまだこれから作っていかなくてはいけませんね。

Saeko

今の私たちはそういうことを考える力があると思うし、次の世代に伝えていかなくてはいけない。それらが出来上がるのは、相当あとのことだと思いますけどね。でも、そういう人たちはすでにちょこちょこいますから。未来は明るいです。

TDM

素敵な時間をたくさん見つけてきたSaekoちゃんのキューバレポート、いよいよ次回からTDMで始まります。お楽しみに!今日はありがとうございました!
'09/10/06 UPDATE
interview & photo by AKIKO
撮影協力:パンコントマテ渋谷店
関連Topics
[Column]saekoのキューバ日記。 [Column]
saekoのキューバ日記。


Saekoのキューバ日記は、ダンサーSaekoが2009年夏までの9ヶ月間キューバ留学をした際にしたためた言葉の数々を記しています…


Back Number